2016年 アンチグローバリズム元年

すっかり年の瀬、気づいたら前回のポストが6月のBrexitの直後で、すでに半年が経ってしまった。振り返れば2016年は英国が国民投票によってEU離脱を選択、アメリカではドナルド・トランプ氏が当選と、グローバリズムを推進してきた2巨頭が正反対の反グローバリゼーションに舵を切るという世界の潮目を大きく変える年となった。この風潮は伝染する強力な力を持っている。なぜならポピュリズムや扇動を伴う大衆による選択だからだ。グローバリゼーションを進める中、多様性の受け入れは重要なファクターであり、国家は国民に民族的、宗教的な寛容性を促した。だからそれに反する意見や発言は、差別的なものとして倫理的なプレッシャー抑えられてきた。ところが英国のEU離脱キャンペーンやトランプ氏の選挙活動に於いて、露骨なアンチグローバリズム主張と民族宗教的差別発言が公然と繰り返されることによって、大衆の心の中に一度は飲み下されていた排他的思考が勢いよく噴出し始める。倫理的に憚られていた他民族への差別発言は巷でおおっぴらに語られるようになった。そしてこれらの人々の感情をさらに煽ることによって、勢いを増して行った。

しかしここで考えなければならないのは、ポピュリズムや大衆扇動への批判は本質ではないということだ。「非倫理的」とも言えるこういった考えに自浄機能が十分に作用せず、いとも簡単に大衆の心を掴んで行ったというのは、これだけ不満が人々の心の中に溜まっていたということに他ならない。グローバリゼーションを推し進めた結果、貧富の差は広がる一方であり、「愛国心」を語りながらも多様性を受け入れるという相反するテーマは、心の底で咀嚼できていない状態の多くの人々にとっては消化不良となり、それでいてグローバリゼーションから特に恩恵を感じられず、長年ストレスとして積み重なってきていたのではないだろうか。これは両国だけの問題ではなく、例えば当のEUのリーダー国であるドイツやフランスでも、昨今の度重なるテロをきっかけに、大衆の心情は明らかに保守路線に風向きが変わりつつある。ただドイツもフランスも米英ほど貧富の差は拡大しておらず、国による富の配分に強い力が作用しているため、まだ爆発的な力とはなり得ないかもしれない。何れにしても英国がEU離脱を選ぶことや、米国が自己中心に舵を切り直すことは、単なる火蓋を切るイベントに過ぎず、早かれ遅かれ何らかの形で、どこかで起きるべきはずのことであったと思える。

EU離脱派はグローバリゼーションの恩恵が見えてないだけではないか、という意見はもっともである。英国がEUのメンバーであることで、どれほどの経済的恩恵がこの国にもたらされていて、結果としてどれほどの税収があり、最終的にこの国に暮らす人々にどれだけ分配されているか。ここを理解すると、EUから英国は搾取されているなどという短絡的な考えには至らないはずだ。だが問題はここではなく、「だから何なのだ」という感情である。EU単一マーケットへのアクセスと引き換えに、無尽蔵に押し寄せてくる移民に対する嫌悪感は、理屈ではもはやコントロールできない。巨大なカジノと化したロンドンの金融街に対する拒否反応もまた、理屈で抑えられるものでなくなっている。ロンドンの金融街がどういった仕組みでどれほどこの国に富をもたらしているかと克明に説明しても、地方の多くの人々にとってはどうでもいいことであって、それよりこれまで溜め込んできた不満をぶちまけたい気持ちが勝る。そういった感情に寄り添った政治は単なるポピュリズムかもしれない。しかしここまで不満が鬱積しているのは事実であって、これ以上蓋をして閉じ込めておくには危険であることもまた明らかなのである。

何をどう変えれば、この不満を解消できるのか誰もわからない。誰もが手探りだ。ただ現状のままでは何も変わらないことは過去を振り返れば瞭然である。ならば大きな変化に賭けてみたいという発想は決して突拍子も無いものではない。冒頭で触れたようにグローバリズムを推進してきた2巨頭が正反対に舵を切り返すというのは皮肉でもある一方で、そこまで歪みが大きくなっていたという事実は明らかだ。これからどう変化して行くのか一瞬たりとも目が離せない。新しい時代に突入しようとしていることだけは確かなのだから。変化には当然リスクが伴う。色々と考えると最悪のシナリオがふと頭を擡げる瞬間もある。一方で誰も思いもよらなかった理想的な着地地点もあるのではないかとも考えたりする。

Brexit 英国はEU離脱を選択した

2016年6月24日の朝、今日は間違いなく歴史的な日となるだろう。英国が国民投票によってEUからの離脱を決断した日である。キャメロン首相は国民投票実施を決定した張本人であるが、その結果によってまさか辞任を宣言するに至るとは何とも皮肉な結末だ。私も強いEU残留派であり、この国民投票の結果には脱力感を感じた。投票当日は朝から嵐のような大雨と雷、まるで天がこの国に何かの警告を示唆しているのではないかとさえ思えるほど、重く暗い空の下6月23日は始まった。しかし一転して開票結果の翌朝、まるで英国の新しい門出を祝福するかのような晴天と朝日。通勤の途中、僕の中には不思議とこの国の下した決断を素直に受け入れ、祝福する気持ちが芽生えた。それはリスクを冒して変化を求めるという、勇気ある決断でもあるからだ。離脱に投票した人々も、短絡的な愛国心や移民に対する反感といった単なる感情論で動いたというのが多数派であるかもしれない。そうだとしても、すでに決断したのだから、もうあれこれネガティブに考えてもどうにもならない。であれば、離脱を選んだ英国がどんな舵取りをするのか、どう世界と交渉していくのか、どうやってその存在感を輝かせるのか見てみたいではないか。これからのイギリスは強いリーダーを必要とする。そのリーダー次第で今日の決断は悪夢の始まりともなり、逆に新しい時代の1ページともなる。日本人とはいえ、この国に住む以上、英国を応援したい、それが私の願っていた残留という道ではなかったとしても、ダイナミクスのない世界など面白くない。

これから荒波がやってくる。英国でバンキング業界に並んで主力産業かつ輸出牽引産業である会計税務や法律サービス業界、コンサルティングなどの専門サービスも、場合によっては大陸に主軸を移すのではという議論もある。しかし、何が起きようと生き残るプロフェッショナルとして実力を磨くこと以外に我々は何ができるか。環境の変化に一喜一憂しているようでは真のプロフェッショナルとは言えない。もちろん環境に適応するだけの受け身ではとても持たない。そうではなく、時流を自身の頭で思考、判断し、何が必要とされているのかを的確に捉えて、提供していくことがまず第一で、そしてアドバイザーとしてむやみにクライアントを惑わすのではなく、自身の信念とIntegrityをもとに周囲に迎合しない姿勢を明確にすることである。そういうプロフェッショナルであり続けたい。

英国における監査対象の基準

これから英国に進出する日系クライアントからよく繰り返し受ける質問がある。初期は非常に小規模で展開する計画であるにもかかわらず、どうして会計監査を受けなければならないのか、という質問である。確かに日本では上場大企業であり、親会社を始めとするグループは、金融商品取引法と会社法それぞれの下、会計監査を受けなければならない。だが英国子会社は非常に小規模であるという場合はよく見られ、グループ監査上も重要性からほど遠く、場合によっては連結の対象外であったりもする。にもかかわらず、英国で監査を受けなければならない理由が分からないということである。

これは英国のCompanies Act 2006、つまり会社法の条件によるものである。477条によると、会社法の定めるスレッショルドに収まる「小企業」は監査免除を受けられるとある。その小企業の基準については382条を参照しており、同条では現在、売上£6.5m以下、総資産£3.26m以下、従業員数50名以下、という3つのスレッショルドのうち2つを満たす企業と定義されている。ちなみにこれらの数値は来年それぞれ、売上£10.2m、総資産£5.1mに引き上げられる(従業員数は変更なし)。

上記の基準には条件が付随している。384条を見ると、その英国企業の業態について触れており、上場企業や、銀行業や保険業はその「小企業」の条件を満たせないとしている。さらに、対象会社自体が条件を満たしていても、グループの一部に同様の会社があれば、「小企業」の対象外となってしまうことに触れている。ちなみに、会社法にて「Company」と書いてある場合は、英国Companies Actの定義による会社のことなので、英国外の「会社」は含まれない。

それならば、日本の親会社は上場企業でグループ内に金融サービス会社もあるが、いずれも英国会社ではないのだから、うちはこの基準を満たすはずで監査は受けなくていいのでは、という声が聞こてくる。そこでもう一度監査免除条項に戻ってみると479条では382 – 384条の「小企業」条件を満たしているかどうかに加えて、会社の所属するグループの規模が上記のスレッショルドを満たしていることを求めている。例外としては親会社がEEA国にある場合は、その親会社の同意のもと監査免除を受けられる。そうでない場合は、原則として小規模スレッショルドを超えるグループ内の英国会社は、単体では小規模でも監査免除の条件から除外されてしまうことになる。ちなみにこの479条の「Group」の定義は、“the group”, in relation to a group company, means that company together with all its associated undertakings となっており、「all its associated undertakings」を含むことになっている。つまり英国会社法下における会社だけでなく、国外の会社も含むすべてを「グループ」と定義している。そうなると、親会社を含む規模で見た時、到底小規模スレッショルドを満たすことはできないだろう。

会社法は随時更新されているので、上記で述べた内容は少しずつ変更があるかもしれないが、現状としてはほとんどの日系在英企業が英国の法定監査対象であることを理解していただけたと思う。

なお、私は法律家ではないので、以上はあくまで個人的見解としていただきたい。英国会社法のリンクを貼っておく。http://www.legislation.gov.uk/ukpga/2006/46/contents

とにかく書き出す

一時期、自分の日記やブログを全て英語で書いていた時期があった。英語力不足への危機感から生まれた発想だった。当時の担当クライアントは全て英系企業で、チームも英人ばかり、私が日本人であること日本語スピーカーであることに何のアドバンテージもなかった頃だ。最近は気分次第で英語で書いたり日本語で書いたりするようになったのだが。それはさて置き、母国語で書き落とすことでしか深く掘り下げにくいこともある。何故なら言語イコール思考でもあるからだ。仮に英語力がネイティブの大学生レベルだとすると、大学生のレベルの思考で止まってしまう。何故なら語彙力や表現力があまりにも足りないからだ。これは音楽にも言えるかもしれない。稚拙な演奏しかできなければ、いくら頭の中で曲を描こうにも限界があるだろう。その証拠にほとんどの著名作曲家は何らかの楽器をかなりのレベルで演奏できる技術を持っている。それに気づくと、改めて書き出すことの大切さを実感せざるを得ない。

さてその思考だが、面白いことに書き出したものから自分の考えを修正、コントロールすることができる。思考が先にあって、その後にアウトプットがあるというのが常識的な考えで、もちろん間違ってはいない。よもや思いもしないものをいきなり書き出すというのは無理で、思いつきで書いたものでも、必ずどこか頭の片隅にあったものが出てきたものであろう。それでも書き出しから思考へという逆方向が存在する。感情を含めた思考は時には制御が難しくなる。その時、司令塔となる理性や直感が鈍り、感情という翼を持った思考という龍は、上空を暴れることになる。その龍を諌める、手綱を握り、感情の翼を制御することができるのが、翼を含めた龍の姿を「描き出すこと」である。書き出してみると、本来向かうべき方向と異なる方向を向いている龍や、無作法に暴れる翼の醜さを認識、観察することができる。そして、その本来向かうべき方向や優雅な翼の羽ばたきを描き出すことで、現在の暴れ龍は徐々に向きを変え、翼は落ち着きを取り戻し始め、気づけば理想的な姿に近づいている。

書き出すという作業は重要で、仕事の上でも常に求められる。クライアントからアドバイスを求められた時、どんなオプションがあるか? To Doは何か? プライオリティは? 技術的問題は? そもそも何が問題か? と突然多くイシューを投げかけることになる。よほど頭のよい人でない限り、これらを何らかの形で整理しないと混沌としてしまう。感情論や必要のない個人的考えなども混ざってくると、さらにタチが悪くなる。こういった場面ではとにかく書き出す。クライアントとのヒアリングから得た情報をまとめる作業、クラインアントの要求の理解、ゴールの設定、To Doや計画の明確化などを行うと、頭の中がクリアになってくる。チーム編成やレポート形式の決定はその後だ。

先を急いで、いきなり飛び込もうとすると、途中で暴れ龍となり、時間だけ費やして、チームのスタッフも振り回し、挙句に何が言いたいのかわからないレポートが出来上がる、という結果になりかねない。これは監査にも言えよう。ドキュメンテーションは非常に重要で、これを怠ると監査チームは暴れ龍となり得る。クライアントのヒアリングやチーム内でのブレインストーミング、現場での各種テストでの発見と結果など、重要かつ有益な情報や考察が詰まっていても、ドキュメンテーションされないとそもそもチーム内で共有できないし、何が目的か、これらの結果をどう結論づけるかという肝心な部分まで至らずに終わってしまう。それぞれの手続きがスタンドアローンで全体と結びつかず、放置されてしまいかねない。そうなると現場の終盤や監査完了工程でやはり暴れ龍となる可能性が高まる。

とにかく書き出す。迷ったら書き出す。考えていることから何でも落とし込む。頭の中だけで解決させようとしない。決算、監査シーズンが始まり、誰もが積み上がった目の前の仕事で手一杯となり、少しでも早く片付けようと躍起になろう。でもほんの少し立ち止まって、少しでも多く書き出す作業に時間を割けば、その時点は余計に時間を圧迫するだけに思えるだろうが、プロジェクト全体で見た時、結果として最短距離を走ることに繋がるということを忘れないようにしたい。

2015年から2016年に向けて

いよいよ2015年も終わろうとしている。クリスマスから新年にかけて休暇を取っている。毎年恒例だが、この時期に自分の棚卸をすることにしている。簡単に言ってしまえば、今年の反省と来年への課題の洗い出しである。2015年の年初に誓ったやるべきことの達成は50%弱と言ったところか。年末に振り返るたびにいつも思うのが、もし80%くらいの達成率だったとしても、どれほど自分の人生は変わっていただろう。そして懲りもせず、次の年こそは決めたことの100%達成を目指そう、と誓うのである。

物事は嘗てないほどの物凄いスピードで進化している。ほんの数年前まではスマートフォンなどというデバイスは存在しなかった。しかし今や身の回りのことはすべて1台のスマートフォンで完了してしまう、いや仕事のかなりの部分もカバーできる域まで来てしまっている。自動化の進歩も目を見張るものがある。これまでAI(人工知能)と言ってもの、人間がプログラムしたことを上手に速くこなす程度であった。しかし昨今のAIは完全に異なり、自ら学習する能力を持っている。インターネット上に氾濫する膨大な情報を自らの意思で収集、整理し、「思考」が可能になるほどの必要知識を得始めている。当然言語も話し始めているし、未来を予測して、判断することもできる。

19世紀の産業革命によってマスプロダクションが可能となり、農業従事者は職を失うと同時に、新たに工場での仕事を得た。20世紀に入ると産業ロボットなどの登場で、単純労働は機械に取って代わられ、工場従事者は職を失う一方で、大量のサービス従事者やホワイトカラーが誕生した。しかし今度のAIによる自動化で消えようとしている職業は、わずかに残った低賃金の単純労働のみならず、サービス従事者やホワイトカラー全般である。そこには我々の業界である会計士をはじめとして、弁護士、そして医者という専門職も含まれる。現実に多くの士業は近年、その業態を激しく変化させている。ソフトウェアの格段の進歩によって、かなりの専門的作業は効率化され、短時間かつ正確に完成するようになってきている。そこでは、特に経験も知識もないオペレーターでもソフトウェアの扱い次第で、過去にそこそこ「専門的」と呼ばれた業務が遂行されてしまう時代となっている。

この先に待っている世界は極度の格差社会と考えられる。これまでの産業の進歩は、常に労働者の収入の上昇に繋がっていた。産業革命によって、農村部から都市部に流れ込んできた新労働者は安定した暮らしが可能になり、消費の増大へと結びつくことによって、さらなる収入の増加へと繋がっていった。オートメーションによって、ホワイトカラーやサービス従事者の収入も単純労働者より大きく上がった。これがまたさらなる消費を生み出し、経済を牽引した。しかし近年の自動化はその逆の傾向を生み出している。単純労働の賃金は減少の一途の上その数、その受け皿となるべき新しい職が用意されていない。

一方で、一部の起業家、企業上層部やバンカー、専門家たちの収入は増加していった。これらのうち、バンカーと専門家の中では、消えゆく層と、さらに収入を増やす限られた層にはっきりと分離していく傾向がすでに始まっている。我々会計士の業界などその最たる例ではないだろうか。ここで起きていることは、かなりの部分がマニュアル化されており情報の取捨選択によって遂行可能なポジションと、高度な判断と創造性を求められるロールとの格差が確実に開きつつあるということである。そして、前者の「情報の取捨選択で遂行可能」な職業は機械に取って代わられ、確実に消え去る。後者の「高度な判断と創造性」が求められるロールは、クライアントのニーズが理解でき、リスクを取って判断を行い、そして新しい発想を生み出し、組織を成長させることであり、まだ暫くは人間を必要とするだろう。

ここで矛盾してくるのは、その後者に達するまでには、前者のような比較的単純な専門的ポジションでトレーニングや経験を積む必要があるという事実にもかかわらず、その比較的単純な作業が機械に置き換えられたら、どうやって経験を得て成長すべきか。教育だけで知識だけを詰め込んで、いきなり上位層に飛び込めるほどそのロールは甘くはないし、逆にそれで務まるマネジャーレベルであれば、そのポジションも既に機械に置き換えられているだろう。

残念ながら上記の課題については、いろいろ論議はされているものの決定的な打開策があるわけではない。私も正直なところ、AIの進歩の脅威についてはまだ実感が湧かない部分が多い。AIの未来について語りだせば、夜が明けてしまうくらい深い議題だ。一つだけ言えるのは、現在どのポジションにいようが自分自信の頭で考えて答えを導き出す努力を怠らないことが重要だということではないだろうか。そういった実力がつけば、優れたAIが登場しても、それらとどう付き合って、自分がどういった付加価値を与えることができるか考え出せるはずだ。少し大げさになってしまったが、2016年はアクセルを踏みつけながら、大きく成長すべく日々を大切に過ごしたい。やりたいこと、挑戦したいことは書ききれないくらいある。それを一つ一つ実現していきたい。皆様にとっても素敵な1年となることを心より願っています。

日本の世論に思うこと

このブログでは政治的な内容や思想的なことについてはあまり触れるつもりはないが、最近の日本の政治や民意について思うことがあり、あくまで一意見として個人的見解を述べたいと思う。

安倍政権に対する内外の批判が強いのは海外にいる身としても感じる。その多くの意見が、これまで平和主義を守っていた日本が好戦的な政策に移行し、また内政でも増税や不公平を助長するものであることを主眼としているものが多い。しかしその平和主義が世界から見たとき、独善的で自己完結的である可能性ことについて論じられていない気がしてならない。今回のフランスのテロから、安倍政策で日本はテロに晒される国家となった、という意見が散見される。しかしテロ対象国家になることを断言的に悪とするのは、グローバルで見たとき、独りよがりなのかもしれない、もっとはっきり言ってしまえば、自分さえ安全であればよし、とする思想にも通づるものがあることについては、どうなのだろうか。

良くも悪くも日本は島国として守られてきた。大きな侵略もなく、致命的な民族差別や迫害もなくやってこられた。しかしこれは世界で見たとき、非常に稀で特殊な歴史なのである。民主党時代に、腰抜け外交と大衆への迎合政策、そしてリーダシップ不在による日本のダメージは国内にいてはわかりにくいかもしれない。しかし海外にいた身として、日本の世界における存在感の加速度的な低下と、見下された外交は正直、目も当てられないほどであった。日本のリーダーの名前など誰も語らない、来年にはまた違う「リーダー」がやってくるのだから、誰も真面目に長期的な対話を持とうとは思わない。それでいて国際貢献は痛みなく、かつ責任なく、そして存在感ない道を辿る一方であった。英国でもいつしかニュースや紙面から日本に関するものは消えていった。皮肉にも日本の存在が復活したのは、かの東北大震災であった。

どの世界でも、意見を述べ、主張し、自己を守り、一方で何かに貢献するということは、必ず敵と味方が生ずる。逆に誰からも批判されないということは、それだけ存在感がなく、さして世界に対して一石も投じて無いといことに他なら無い。アーティストにも言えるだろう。これだけ内外から賛否両論が生まれ、これだけ強いリーダーシップと主張を持った政権は過去10年なかった。安倍首相も人の子であり、ミスもすれば偏っていることもある、弱気な部分もある。しかし一方で、敵を作ることを恐れず、日本にしっかりとしてディレクションを示し、しかるべきところで妥協しない外交を実行していることは評価されるべきではなかろうか。先に述べた、日本の「平和主義」が独りよがりであることは、ひとたび海外に出れば、痛烈に感じるものである。

人間は飢えれば何でもする。生き残るための本能である。国家も同じだ。調子がいい時は、行儀よく理性的な外交で調整がつく。しかし国家が脅かされたり、存続に窮した時、それまで理性的な態度は豹変する。それが自分には及ばいないと信じて、どこか遠い世界の話と思っているうちは、その「平和主義」を標榜していられる。しかしひとたび自身に脅威や被害が及ぶとなった時、そんなはずではなかったと人々は思う。自国の「平和主義」のために、外の世界のえげつない争いを見て見ぬ振りをしてきた国が、突然隣国から理性を逸した攻撃を受けた時に、誰が助けてくれるというのだ。敵を作ることを恐れて、周囲に妥協し、摩擦を恐れるがあまり悪くもないのに謝り、悪いものを悪いと言わない、という政策は平和主義でも何でもなく、それは「臭い物に蓋をする」ご都合主義に他ならない。テロリストの対象になりたくないから、テロリストを批判もしない。突然、北朝鮮が日本に何の前触れもなくミサイルを撃ってきても、その平和主義を貫けるだろうか。そういったときだけアメリカに助けを求めたりはしないだろか。それでも平和主義のために、金は出すが、痛みやリスクを伴う貢献はしたくないのだろうか。税金も然り。世界でも類を見ないほど貧困層が少なく、「底辺」などと言いつつも、自由に人生を選択しながらも衣食住に困らない福祉国家に守られていながら、その国家が天井知らずの債務超過であるのを知りつつ税金で貢献したくないというのはあまりに虫が良すぎないか。

私の意見は少々強いかもしれないと自覚している。しかし意見すべき必要もあると感じる。もちろん私の考えが正しいなど微塵も思わない。あくまで一意見である。お前こそ、海外にいる日本人で本当の日本のリスクを背負っていないではないか、という批判も受ける覚悟である。しかし海に守られた島の中にいて、世界との接点の少ないところにいては、思いもつかないことも多いと思う。だから敢えて海外にいる日本人として思うことを述べてみた。

新会計基準、FRS 102の実施迫る Part 3 – Intracompany Loan

FRS 102の施行について過去に2回ほど書いたが、まだ特定の会計処理や開示情報について触れていない。FRS 102は今年の9月に再びアップデートされて、若干の変更が加えられているが、何よりセクション1Aという小企業向けの開示情報減免に関するレジームが加えられている。このように頻繁にアップデートを繰り返されており、今後もまだまだ追加項目や変更が発生することが予想される。影響があるエリアについては全てをここで論じるつもりもないが、例として3つ、Intercompany loans、Goodwill/intangible assets、Deferred taxについて軽く触れてみたい。そして今日はその中からIntercompany loanについて。

Intracompany loanの計上方の変更はかなりグループ企業にとって悩ましい問題となり得る。在英の多くの日系企業はグループ子会社であるから、多くが当てはまるだろう。グループ内会社間の貸付を無利子もしくは一般的な銀行ローンや社債に比べて明らかに低い利子の設定にて行っている企業は多い。税務上の調整はさておき、UK GAAPにおける決算書では、そのままのローン残高を計上すればよかった。ところがFRS 102では、もし第三者間でのローンであれば発生しているはずの利子を計算して、割り引いた額での計上を求められる。つまりPresent Valueである。本来発生しているはずの利子とは、例えば銀行で同様の条件の貸付を取り付ける場合に発生する利子のことである。例えば、日本の親会社が2年の会社間ローン£1mとして英国子会社に無利子で貸付を行った場合、もし銀行であれば5%の利子が妥当であったら、5%を2年分割り引いた額がバランスシートに計上、毎年その発生しているはずの利子はP&Lを通して認識される。

そうなると疑問があるはずだ。ローン額の認識時にローン残高とキャッシュとの差額、つまりトータルの割引額は初期認識の際にどこに行くのか。これは親会社からすれば子会社への投資の一種とみなされ、親会社ではInvestment、子会社ではCapital contributionとなる。つまり英国子会社では、Equityに計上されることになる。先ほどの親子会社内の£1m2年ローンの例だと、初期認識とその後の計上は下記となる。

初期認識
Dr Cash                           £1,000k
Cr Intracompany loan     £907k

Cr Capital contribution    £93k

1年目
Dr Interest expense (P&L) £45k

Cr Intracompany loan        £45k

2年目
Dr interest expense (P&L) £48k

Cr Intracompany loan       £48k

Dr Intracompany loan        £1,000k

Cr Cash                              £1,000k

いかがだろうか。計上自体が面倒になることは明らかだが、何よりもその「本来発生しているはずの利子」を計算することが厄介であろう。様々な条件を考慮する必要があり、単純にLIBORから拾ってこればいいというものでもない。リスクファクターや会社のファイナンシング構造など考えなければならない。監査上は最後は重要性の問題になるだろうが、社内で一定の計算プロセスやルールを構築することが求めらるだろう。

参考 FRS 102 ver. September 2015、ICAEW FRS 102 and Interest-free loan