2016年 アンチグローバリズム元年

すっかり年の瀬、気づいたら前回のポストが6月のBrexitの直後で、すでに半年が経ってしまった。振り返れば2016年は英国が国民投票によってEU離脱を選択、アメリカではドナルド・トランプ氏が当選と、グローバリズムを推進してきた2巨頭が正反対の反グローバリゼーションに舵を切るという世界の潮目を大きく変える年となった。この風潮は伝染する強力な力を持っている。なぜならポピュリズムや扇動を伴う大衆による選択だからだ。グローバリゼーションを進める中、多様性の受け入れは重要なファクターであり、国家は国民に民族的、宗教的な寛容性を促した。だからそれに反する意見や発言は、差別的なものとして倫理的なプレッシャー抑えられてきた。ところが英国のEU離脱キャンペーンやトランプ氏の選挙活動に於いて、露骨なアンチグローバリズム主張と民族宗教的差別発言が公然と繰り返されることによって、大衆の心の中に一度は飲み下されていた排他的思考が勢いよく噴出し始める。倫理的に憚られていた他民族への差別発言は巷でおおっぴらに語られるようになった。そしてこれらの人々の感情をさらに煽ることによって、勢いを増して行った。

しかしここで考えなければならないのは、ポピュリズムや大衆扇動への批判は本質ではないということだ。「非倫理的」とも言えるこういった考えに自浄機能が十分に作用せず、いとも簡単に大衆の心を掴んで行ったというのは、これだけ不満が人々の心の中に溜まっていたということに他ならない。グローバリゼーションを推し進めた結果、貧富の差は広がる一方であり、「愛国心」を語りながらも多様性を受け入れるという相反するテーマは、心の底で咀嚼できていない状態の多くの人々にとっては消化不良となり、それでいてグローバリゼーションから特に恩恵を感じられず、長年ストレスとして積み重なってきていたのではないだろうか。これは両国だけの問題ではなく、例えば当のEUのリーダー国であるドイツやフランスでも、昨今の度重なるテロをきっかけに、大衆の心情は明らかに保守路線に風向きが変わりつつある。ただドイツもフランスも米英ほど貧富の差は拡大しておらず、国による富の配分に強い力が作用しているため、まだ爆発的な力とはなり得ないかもしれない。何れにしても英国がEU離脱を選ぶことや、米国が自己中心に舵を切り直すことは、単なる火蓋を切るイベントに過ぎず、早かれ遅かれ何らかの形で、どこかで起きるべきはずのことであったと思える。

EU離脱派はグローバリゼーションの恩恵が見えてないだけではないか、という意見はもっともである。英国がEUのメンバーであることで、どれほどの経済的恩恵がこの国にもたらされていて、結果としてどれほどの税収があり、最終的にこの国に暮らす人々にどれだけ分配されているか。ここを理解すると、EUから英国は搾取されているなどという短絡的な考えには至らないはずだ。だが問題はここではなく、「だから何なのだ」という感情である。EU単一マーケットへのアクセスと引き換えに、無尽蔵に押し寄せてくる移民に対する嫌悪感は、理屈ではもはやコントロールできない。巨大なカジノと化したロンドンの金融街に対する拒否反応もまた、理屈で抑えられるものでなくなっている。ロンドンの金融街がどういった仕組みでどれほどこの国に富をもたらしているかと克明に説明しても、地方の多くの人々にとってはどうでもいいことであって、それよりこれまで溜め込んできた不満をぶちまけたい気持ちが勝る。そういった感情に寄り添った政治は単なるポピュリズムかもしれない。しかしここまで不満が鬱積しているのは事実であって、これ以上蓋をして閉じ込めておくには危険であることもまた明らかなのである。

何をどう変えれば、この不満を解消できるのか誰もわからない。誰もが手探りだ。ただ現状のままでは何も変わらないことは過去を振り返れば瞭然である。ならば大きな変化に賭けてみたいという発想は決して突拍子も無いものではない。冒頭で触れたようにグローバリズムを推進してきた2巨頭が正反対に舵を切り返すというのは皮肉でもある一方で、そこまで歪みが大きくなっていたという事実は明らかだ。これからどう変化して行くのか一瞬たりとも目が離せない。新しい時代に突入しようとしていることだけは確かなのだから。変化には当然リスクが伴う。色々と考えると最悪のシナリオがふと頭を擡げる瞬間もある。一方で誰も思いもよらなかった理想的な着地地点もあるのではないかとも考えたりする。